ひろしま・ブルガリア協会 Hiroshima-Bulgaria Association 
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2019年(令和元)年は、日本とブルガリアの「交流開始110周年」、「外交樹80周年」、「外交関係再開60周年」の【三つの周年】の年
           
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 広 島 県、広 島 市 な ど
広島市の「猿猴橋」とブルガリア・ソフィア市の「鷲の橋」
 広島市の表玄関・広島駅からすぐ近くを北西から南西に流れる猿猴川に架かる「猿猴橋」は、かつて広島随一の華麗な”鷲の橋”でした。広島市の中心に入る時に渡る重要な橋として、欄干の親柱は「両翼を広げた鷲が地球の上にとまり」、他の柱には多くの照明灯が飾り付けてありました。  猿猴橋のモデルは、ソフィア市の市街地に入る時に渡らなくてはいけない「鷲の橋」と、いわれてるという。
 当協会は、「猿猴橋復元の会」(大橋啓一会長)から依頼され、20095月の第5次・ブルガリア訪問団(今村功団長=当協会・会長)が現地を調査して写真や資料を提供するなどの協力をしてきました。
広島市の「猿猴橋」が復元、渡り初めと点灯式
2016(H28)年3月28日(月)
今村会長が点灯式に駆けつけ祝辞を伝える
90年ぶりに被爆70周年記念偉業として復活
松井市長も駆けつけ祝辞を述べる
「猿猴橋復元の会」が運動して8年半で実現
90年ぶりに復元した猿猴橋が点灯

復元を祝う多くの市民の前で点灯された欄干上の照明
点灯式で祝辞を述べる松井市長

猿猴橋・北側で行われた点灯式典で祝辞を述べる松井市長
 広島駅南口のすぐ前を東西に流れる京橋川に架かる「猿猴橋」は、2016(H28)年3月28日(月)にかつての美しい姿に復元されて、渡り初めと点灯式が行われました。

 猿猴橋は、かつて広島市内に入るためには必ず渡らなければならない重要な橋であり、全国でも1.2の美しい豪華な欄干を持つ橋でしたが、戦時中に欄干を飾る照明灯の鉄の部分を供出するために破壊されたままになっていました。
 そこで、地元の住民たちは、「猿猴橋復元の会」(大橋啓一会長)を結成し、これまで8年半も活動を続けてきました。

 「猿猴橋の欄干デザインが似ている」ということで大橋会長から、ブルガリアの鷲の橋を調査して写真を撮ってきてほしい、と当協会が協力を依頼されてから、ブルガリア訪問団の派遣の際に、調査結果と写真を提供してきたのです。
 復元された猿猴橋の北側・親柱の照明灯

大橋会長にお祝いの言葉を伝える今村会長(右)
親柱上の照明
  
(左=北側親柱)点灯された欄干上の照明灯(右=南側親柱)
  この縁があり今村会長は、同日18時半から行われた照明の点灯式に駆け付け,当協会を代表して、お祝いの言葉を伝えたのです。

 8年半の地道な活動をしてきた大橋会長は、やっと皆さんのご協力で復元が実現しました、と満面の笑みを浮かべていました。
 点灯式には松井一實市長も駆けつけ、祝辞を述べました。 
 
同市長に今村会長が、ブルガリアのソフィア市に猿猴橋とデザインが同じの平和のシンボル「鷲の橋」と「獅子の橋」があることを伝えました。

 
これに対し松井市長は、ブルガリアと縁があるのですね、広島にも広島市街地に入る橋を意義とデザイン性のある橋を架ければいいかも、と語っていました。
北から見た猿猴側
 
親柱の上と欄干上の照明が復元された猿猴橋(北側から)

欄干支柱の照明と猿猴の透かし彫り

復元された桃を取り合っている猿猴の透かし彫りと支柱の照明
満開した桜と復元した猿猴側

京橋川にかかった新・猿猴橋

平成27年 復元前の猿猴橋

鉄の供出を受けて石灯篭に変わっていた復元前の猿猴橋
*復元された猿猴橋・北側の土手歩道に設置された案内板から
  大正15年 架け替え後と昭和20年 原爆投下後の猿猴橋
復元された猿猴橋(北側)に建てられた説明版から
大正15年 架け替え当時の猿猴橋

被爆後に架け替えられた猿猴橋
昭和20年 原子爆弾投下後の猿猴橋

原爆投下の強烈な閃光や爆風にも耐え抜いた猿猴橋
猿 猴 橋 427年の歴史
復元された猿猴橋(北側)に建てられた説明版から

大正の架橋から戦時中、原爆投下・終戦、平成と427年の歴史を刻んだ猿猴橋
復元に当たっての被爆石の保存と活用

復元された猿猴橋・北側の土手歩道に設置された案内板から
頼 山陽 が記した猿猴橋

復元された猿猴橋・北側の土手歩道に設置された案内板から
 広島市の「猿猴橋」 ソフィア市街地を守る南東の「鷲の橋」 
かつての猿猴橋の姿

橋の支柱の上には地球の上に乗った鷲が止まっている
ソフィア市街地の南東・出入り口「鷲の橋」

現在のソフィア市の「鷲の橋」 
「猿猴橋復元の会」大橋啓一会長によると、同橋の金属部分は戦時中に金属供出され現在は、寂しい形を残しているので、この”鷲の橋”を再び蘇えらせようと、200710月に同復元の会を結成して活動しています。  この橋は、約500年間に亘って占領していたオスマントルコから解放された時、僻地に追いやられた有力者や市民、民兵などが、市街地に帰ってきたときに建設されたもので、「勝利」「凱旋」「平和」のシンボルとして大事に保存されてきたもの、といわれている。
大正時代の猿猴橋

広島市内に入るためには通らなくては行けなかった猿猴橋

橋の親柱には地球の上にとまった鷲
大正時代の猿猴橋
 
 かつての鷲の橋 (絵葉書)
 
ソフィア市内に入るために通らなくては行けなかった鷲の橋
大正時代の「猿猴橋」風景

ソフィア市の地図
 
ソフィア市街地の出入り口にある「鷲の橋」(←)
橋の銘板と欄干の飾り・猿猴
   
復元後の予想図
 
復元後の猿猴橋予想図 
ソフィア市街地(右側)と鷲の橋

欄干上の照明と親柱上の地球にとまった鷲の飾り
   
ソフィア市街地を守る北西入り口の「獅子の橋」
  ソフィア市の北西・出入り口の「獅子の橋」
 
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