ひろしま・ブルガリア協会 Hiroshima-Bulgaria Association
中 国・大 連から  

大嶋 登 氏 便り&レポート

  協会理事・事務局次長の大嶋登氏が仕事の関係で中国・大連に赴任れ、これから大連の様子を送ってくださる事になりました。    そこで、新しく「中国・大連から 大嶋 登 氏 便り&レポート」コーナーを設けました。  

大連の街角から 〜ちいさき者へ〜 2010.08.20 

 ご無沙汰しています。残暑きびしき折、いかがお過ごしでしょうか。前便からすでに一年が経過していますが、
これから日頃気づいたことを少しづつお知らせしたいと思います。

 
大連ではもう初秋。朝夕は涼しくなって六月初旬から始まった短い夏が八月半ばには終わり、いよいよ秋と冬がやって来る気配が感じられます。そんな毎日の中、電車やバスで、またレストランやホテルの中で、そうまだ幼稚園にも上がらない子供たちの姿をよく見かけます。

 
気づくこと、それは幼い子供たちの可愛がり方、慈しみ方が半端なものでないことでしょうか。親やおじいさん、おばあさんといった血縁者はもとより、周囲に居合わせる人たち全体の様子が、です。

 
言われるわけでもなく、「心のそこから可愛い」、「自分で抱いてみたい、触りたい」、「その子供の頭や頬を
なでてやりたい」といった気持を素直に表します。街のどこでも見られるそうした女性たちの仕種を久しく日本では見ていなかったように思い、驚きでした。周りの者が皆で「ちいさき者」を守り、育てようという気持に溢れているようです。当地の幼なき子供たちは幸せ者です。

                 
                        街中の子ども 

 ついでながら、敬老の精神は未だ健在で電車やバスで少し年配の人に若い人たちが席を譲る光景は日常茶飯事で
す。かの国に住んで、その国の人たちを嫌う日本人は少なくないのですが、敬老の心構えには一目置いています。

 先日、バスに乗り重いカバンを持って立っていると席を譲られてしまいました。
相手は二十そこそこの娘さんでした。断るわけにもゆかず、「えっ、私まで」と思ってうれしいような、寂しいよ
うな。

 
皆さんもそんな経験をお持ちでしょうか。

大連京劇院のご紹介

  2009年8月10日 
 

大連京劇院は19494月に旗揚げ
 
記録によると大連京劇院は19494月に旗揚げ。天安門広場で行なわれた毛沢東による共産主義国家中国の建国宣言が1949101日ですから、その半年前ということになります。

 
後で触れる大連麒麟会のメンバーの一人によると、京劇は北京、上海といった大都市で盛んですが、大連でもそれに負けず劣らずで、土曜日午後2時から通常は午後4時頃まで毎週休まずに麒麟舞台で公演されていて、中国でも屈指の活動の盛んな劇団であると。

京劇とは

さて、京劇というと何を連想し、どんなことを想像しますか。

中国の伝統芸能、独特の甲高い裏声での発声、異様な隈取り、そ



     
           
麒麟舞台 外観

   

れとも剣の舞でしょうか。

 何を隠そう、私が京劇の実演を初めて観たのはこの5月末のことでした。唯一それらしきものはレスリー・チャンが好演し、1993年にカンヌ映画祭でパルム・ドール賞を受賞して、日本でも話題になった「さらば、わが愛 覇王別妃(はおうべっき)」という映画を観たことくらい。

大連には常設の京劇団があります。名称は大連京劇院、主に使用する劇場は麒麟舞台(右写真)と呼ばれます。その建物は1934年日本統治時代に竣工した東本願寺の本堂を改装したもの。日本の敗戦後は大連図書館の古書書庫とされ、その後1993年に京劇団の稽古場となり、1997年には京劇の小劇場として改装され今に至っています。



 
1960年代文化大革命の嵐が中国で荒れ狂っていた時代を背景にした、二人の青年の物語でした。下の息子と家内と3人で広島の映画館で観た記憶があります。文化大革命の影響は京劇にも及び、多くの名優といわれた人たちが弾圧、迫害され、あるいは落命して京劇界に多大のダメージを与えたと言われています。

京劇の起源

 京劇鑑賞の経験や知識が乏しいのですが、京劇の起源に一応一言触れます。

 京劇は比較的新しい演劇です。英語で表記するとBeijing Opera あるいはChineseOperaです。要は北京を中心にして発達した中国の歌劇。こう捉えると理解しやすくなります。起源には4説くらいあって、いちばん起源の古い説は1790年清朝乾隆帝の80歳の誕生祝に中国南方の地方劇 徽班を北京に招聘したことが始まりとするものです。その後も徽班を中心にして地方にあった伝統芸能を取り込み、融合発展してきた大衆演劇と言えそうです。

京劇を利用して治世の方針やあり方を伝える 

 現代とは異なってマスメディアが発達していない時代の為政者は、この京劇を利用して治世の方針やあり方を伝えたようです。かの文化大革命でもプロパガンダの手段として京劇は利用されました。それだけ一般の民衆に親しまれてきたことの表れと言えるかもしれません。

 

京劇鑑賞回数は、5、6回

 京劇鑑賞回数は、5、6回。 これでは何も語る資格はありませんが、気づいたことを簡単にご紹介することを許していただきましょう。

@音楽が演技進行をリードする

 大連京劇院では楽隊が銅鑼(どら)を含めた打楽器、伝統的な弦楽器、吹奏楽器を演奏します。総勢16名とのこと。若い楽隊員が大へん多く、16歳から50歳といった年齢構成です。耳を聾する音響に驚きますが、慣れるにしたがって役者の演技や場面展開を先導していることが分かってきます。仕事とはいえ、2時間にわたる演目のひとつひとつの場面での曲をよく暗譜するものだと驚きます。

 京劇は観るものでなくて、聴くものと言われます。京劇独特の裏声による発声や裏方の演奏などをひとつとして捉えて鑑賞すると、そうなのかもしれません。

 
     役者白玉さんが虹橋贈珠という演目で7/25に主役を演じたときの写真 

A 役者の演技

 主要な場面では役者は必ず見得を切ります。これはといった大見得のときに、間髪を入れず「好・ハオ」と発して一般の観客をリードするのが通人の役目です。役者の顔面への隈取りなどを考え合わせると歴史の長さは異なりますが、歌舞伎と似た点が多々あるように思われます。


役者4名と一緒に。前列右から徐英、劉子源、白玉、楊程の面々


 大連に来られることがあれば、
土曜日午後2時から4時の時間を空けて芝居小屋で京劇を楽しんではいかがでしょうか。

大連から

 大嶋 登(協会・理事・事務局次長)

     それと京劇の役者は軽業師顔負けのアクロバット的な空中回転や  転倒を演技して観客を沸かせます。これには日ごろの鍛錬が欠かせ  ない と現役の役者が語っていました。幼児からの訓練もあるいは  行なわれているのかも。京劇院の役者は総勢約65名だと。

 

 女形の存在については、レスリー・チャンの「さらば、わが愛・・・」で演じた役の印象が強かったので大連麒麟会のメンバーに尋ねると、「女性に備わっている、やさしさと意地悪さ、かわいらしさ、柔らかさはなかなか女性以上に表現することが難しいので、いまは女形よりも女性役は女性にというのが主流」とのことでした。

B 芝居小屋「麒麟舞台」
   大連京劇のいちばんの魅力は役者と観客の近距離感、一体感では  ないかと思います。

   元東本願寺の本堂を改装した
麒麟舞台にはなつかしい芝居小屋の  雰囲気があります。舞台  で演ずる役者の細かな表情が眼前にあ  り、息遣い、体温、胸の動悸までが観客に伝わって  くるかのよ  うです。

 舞台の高さは70〜80センチで幅が25メートル奥行きが15メートルくらいでしょうか、目測で見当をつけているので正確ではありませんが。1階の座席は横1列に8から12脚くらいの椅子が置かれ、これが縦に10列に並び、2階は12席が設けられた特等席。料金はひとり30元から100元。定員150名。

 大連麒麟会は京劇鑑賞の同好者が去年8月に飲み会をしたその場の盛り上がりで発足し

た会とのことでした。どなたがこの立派な会名をつけたのか分かりません。

 

 会長は柘植治人さん(パナソニックから大連に出向)、事務局長は田代祐基さん(マルハニチロ水産の大連代表処)。メンバーは、日本人8名(+日本在住3名)と中国人3名の構成です。

 皆でたのしく京劇を鑑賞しましょう、大連京劇院のメンバーを応援し、親しく交流しましょうというのがこの会の趣旨のようです。

 
6/13の役者4名との食事会、7/25に楽隊の
メンバー12名との食事会のときのスナップを添付します。

 
楽隊のメンバーと。日本人は5名のみ 

大連アカシア祭(空振りの巻き)  2009年6月1日


今 年


去 年 
 

大連の春は短い
 大連の春は短く、あっと言う間に初夏、盛夏に向かっていくように感じられます。今はもう初夏から盛夏に移っていく季節です。気温は日中で27度。そんな中525日から31日までアカシア祭が催されました。今年で20回目のイベントだと伝えられています。

 アカシアの街路樹
 いま52,000本余りあるといわれるアカシア街路樹には、
やはり帝政ロシアとの係わりが出てきます。大連の街並みを設計し、港を建設したのは東清鉄道の技師長でダーリニ(大連)市長を後に兼任したロシア人サハロフです。日露戦争のため道半ばでダーリニの建設を断念し、こよなく愛した街の完成を見ることなく日本軍の進軍のため退避した旅順でチフスに罹り死亡。この人が南ロシアからシベリア鉄道で、はるばるアカシアの苗木をこの地に運びこみ植樹したのが始まり。これを引き継ぎ、さらに植樹したのが日本人。

アカシア祭り
1.英華街

アカシア祭なるものを一目見ようとお上りさんよろしくこの土曜日5/30に勇んで大連市内のアカシアの名所といわれるところ数箇所を訪ねてきましたが・・・


 一番目、英華街。場所は日系企業の魁として1996年竣工して大成功を収め日本領事館や主に日本の優良企業の入居する地上24階高層の森ビルの北隣。大連駅から1`の距離。大連理工大学の研究所に沿ってアカシア並木があります。(写真1

 アカシアの満開は過ぎ、風に吹かれて夏の日差しを浴びた白の花房が舞っていました。とくに普段と変わらない街の光景です。(写真2:去年の開花の様子)

 

2.正仁街

 二番目、正仁街。英華街から2`、タクシーで1メーターの距離。オリンピック公園の近く。

 
アカシア大通のあるところなのでイベントでもと期待しましたが、これもとくに普段と変わった様子は見られません。緑の勢いを増したアカシアの木々がありました。

(写真34


3.ロシア街
 三番目、ロシア街の通り。正仁街からはタクシーで12元の距離。3〜4`の距離か。普段と変わらず、少し露店が増えたかという程度。ここではアカシアの木が見えない。
   
今年


去 年
  4.南山街のアカシア並木
   

4.南山街

四番目、南山街。旧日本人街というよりは往時の南満州鉄道の幹部の戸建て高級住宅街。中山広場の南に位置する。大連駅から3`前後か。ここも満開を終えたアカシアの並木道があるのみ。人影が多いわけでもなく、普段と余り変わらない光景。これから来る夏を思わせる日差しがありました。(写真5

 いろいろ訪ねたが、
アカシア「祭」というようなものはナシ。初日5/25には星海広場という会場で催しがあったようですが。知合いの中国人に話すとあっけらかんと次の返事。「アカシアといって騒ぐのは日本人だけ。中国人はアカシアを何とも思わない。この花は食べると甘いよ、ハッハッハァ。食べ物の少なかった時代、食材に混ぜたものです。」

アカシアからの連想

アカシアというと連想するのはロングヒットで今もカバー・ソングにされている西田佐知子の「アカシアの雨にうたれて、このまま死んでいまいたい」で始まるあの歌。ネットでチェックするとアカシアを題名にする歌だけで9曲。時代の寵児であった石原裕次郎に「赤いハンカチ」という歌があって、ここでも確かこんな歌い出し。アカシアの花の下で あの娘がそっと まぶたを拭いた 赤いハンカチよ・・・”

 妻を亡くして書き始めたという
清岡卓行の「アカシアの大連」でも思いを寄せた二十歳の若き女性(妻)が初夏の大広場(中山広場)を往く初々しい後姿を白いつぼみの頃のアカシアと重ねて描く印象的な場面がありました。アカシアはいろいろな連想を呼び起こす慕わしい花なのですが、日本人にとっては。

アカシア祭りの教訓

アカシア祭の教訓:「ところ変われば 人も変わる」
大連から 大嶋 登
(理事・事務局次長)

  ダーリニ市庁舎のこと  2009年4月15日

帝政ロシア時代に建てられた旧・ダールニ市庁舎 
 

大連にも春の訪れ
 大連も長い冬がようやく終わって春に向かってアクセルを全開という感じです。

 いつの間にか灰色の街の木々に
淡い緑が芽生えています。(と昨夜書いたところ今朝はみぞれが降り、びっくりしました。地の人に聞くとこの時期には珍しいとのこと。)

 
 「大連」はロシア語の「ダーリニ」(遠方)の意味から
 大連の名前の由来ですが、ロシアが租借を得て入植したときから呼び習わしていた「ダーリニ」(ロシア語で遠方の意味)を日本による統治後も「大連(だいれん)」と表記して現在の呼称になったと言われています。英語ではDalian。それまでの地名「青泥窪・チンニーワー」は残り、ある区域を指す名前として今なお使われています。

少し前になりましたが、前便でお送りした写真は帝政ロシア時代の建物で旧ダーリニ市庁舎(写真左)。日本にとっても大へん縁の深い建物であることが後になって分かってきました。

 

 時は100余年遡りますが、清国領内におけるシベリア鉄道建設の承認を帝政ロシアが得、その建設を委託された東清鉄道の事務所として1900年頃竣工し、1902年ダーリニに特別市制が敷かれると、そのままダーリニ市役所として使われた建物でした。

日露戦争(1904-05年)で(旧)日本軍が接収した後は、関東州民生署、満鉄本社、大連ヤマトホテル、大連医院、満州資源館などとして、また大東亜戦争後は大連自然博物館として使われたものです。

 
 関東州、東清鉄道(写真右)、
ダーリニ、満鉄、大連ヤマトホテルとか、大連のことを知っていくと何となく聞いてはいるが戦後あまり知る機会のなかったこうした語が必ず出てきます。

日本語を話す中国人が多い
 大連に来て驚くのは、
日本語を話し、勉強している中国人が多いこと、大小の日本企業が数多く進出し、日本食も豊富、冬の気候も相対的に穏やか。日本人にとって中国の中ではもっとも暮らしやすいところと言われます。

 また、高層ビルの林立する近代的で、
欧州風の雰囲気を持つ開放的な大都会でもあります。少し注意して大連市街を歩くと、旧ダーリニ市庁舎然り大連駅(写真右)然り、街の要所、主だった場所で歴史が顔を覗かせます。

 近代の歴史、
その来し方、我々の先人の関わりをある程度は知っておかないと、表面の躍動感や今なお続く高層ビル建設ラッシュ(写真下)に目を奪われ、ただ通り過ぎてしまうだけに終わってしまいがちです。

   
旧・東清鉄道ビル  


  路面電車
 
   高層ビルが建ち始めている大連


大連の町並み
   

 4か月前に当地に来てから知った役立ちそうな点をざっとご紹介しましょう。

1860年

大連が近代世界にはじめて接触したのは大英帝国でした。
1860年第二次アヘン戦争の際、北京に進軍する途中で英仏連合軍は大連湾に集結。そのときイギリスは大連湾一帯の陸海を測量。

1894年

日清戦争(189495)の結果、清国は遼東半島を日本に割譲。
その後半年ほどで、遼東半島はロシア、ドイツ、フランスの三国干渉で清に返還。

1898年

大連湾や旅順を含む関東州を帝政ロシアは租借し、悲願の不凍港をようやく手に入れる。

1904年
 日露戦争(190405)でロシアは
建設中の大連をそのまま放棄して、撤退。
 日本がロシアに代わり大連を統治し、その建設に心血を注ぐ。満州への入口でもあった。


大連は
帝政ロシアが当時のパリを模して設計図を引き建設を始め、日本がこれを引き継ぎ完成させた点に都市としての始まり、特徴がある。広場を中心とした、欧州に目を向けた自由で開かれた美しい都市であった。

1945年

ソ連軍による大連占領。

1951年

ソ連は占領していた大連港を中国に返還。

 

次に帝政ロシアとシベリア鉄道/東清鉄道を見てみます。

シベリア鉄道は欧州から東に伸び清国との国境線に沿って迂回しながら日本海に臨むウラジオストクを終点とする世界最長の路線です(全通は1904年)

 1896年帝政ロシアは
武力を背景にこの路線に加えて、清国領内を経てウラジオストクへ至る短絡路の敷設を清国に認めさせます。これが東清鉄道です。

 

 さらに、帝政ロシアはハルビン(黒龍江省)から念願の不凍港、遼東半島の大連・旅順へと鉄道をつなぎます、これが通称、満鉄と呼ばれる南満州鉄道です。この鉄道敷設も帝政ロシアの意を受けた東清鉄道が行い、1902年には終着の旅順まで開通。

 

大連駅南口から新市街地を

 

  大連駅舎
 

 帝政ロシアと鉄道との関係についての興味深いひとつの分析をご紹介しましょう。

大英帝国は本国が狭小であるハンディを七つの海を自由に動く船舶という道具を使って克服し、世界中の物、人、情報の移動を一手に支配した。これに対抗して帝政ロシアは、極東の拠点ウラジオストクと欧州とを鉄道網によって結び物、人、情報の移動を担い、世界制覇に乗り出したと。
 
 
つまり、東アジアに不凍港を確保し、そこを拠点として東アジアの資源を鉄道で欧州に運び、欧州からの製品を東アジアに供給する。欧州・アジア間の物・人・情報の移動を一元的に支配するという帝政ロシアの世界政策を担うのが鉄道で、それがシベリア鉄道であり、東清鉄道です。

不凍の商港を築きつつある大連が帝政ロシアにとってどれだけ重大な戦略拠点であったのかは、旅順・金州などの他の関東州の拠点と異なり、蔵相ウィッテがこれを自らの直轄地域として惜しみなく建設費用が投じられたことからも窺える。


 帝政ロシアが
大連の建設と行政を東清鉄道に任せていたため、1902年ダーリニ(大連)に特別市制が敷かれるとダーリニ市役所は東清鉄道の事務所をそのまま使い、行政機能を果たしたのである。つまりこの建物は帝政ロシアにとって、世界制覇の野望の夢の跡。

余談ですが、帝政ロシアの野望の拠点が首尾よく完成すれば、大国ロシアの南下政策に翻弄され、日本は存続の危機に瀕することは必至で、植民地や属州にされても少しも不思議はありません。大国ロシアと国の存亡を賭けて日露戦争を戦った若き明治の日本を描いたのが司馬遼太郎の「坂の上の雲」でした。

北欧ルネッサンス式の旧・ダーリニ市庁舎は、今はもう務めを終えて人を受け容れることもなく、大連に現存するもっとも古い建物として街の北東の端にひっそりと佇み、100余年の街の来し方を振り返り、その行く末を無言で見つめています。


大連のメイン通り



  ロシア街

   大連に帝政ロシアの面影    2008年12月21日
  
「ロシア通り」のアーケード
    お変わりありませんか。

 TVのニュースによると、きょう明日当たりは陽気が緩むとありました。暖冬でしょうか。

当地でも暖冬と言われていましたが、きのう今日と本格的な冬到来かと思わせる寒さになってきました。きのうは、最高気温マイナス4度、最低気温マイナス13度。とは言っても、それは外でのこと。室内は耐寒の設備、工夫がされていて、私の滞在するホテルでは暖かく一言でいうと快適です。


 北海道でもそうですが、寒い土地では冬の暖房は死活的な重要性があって、当地でも働く人には給与以外に、手当のひとつに暖房費なるものが独立した項目として設けてあり、支給されるようになっています

大連は仙台と同じ緯度ですが、少し寒いのではないでしょうかね。渤海と黄海に突き出た遼東半島の黄海側に位置するのですが、風があるので体感温度が低く感じられるではないかと。大黒山という標高663bの山が聳えていて、大陸からの冷たい風が吹き下ろしているように思われます。

 

そう、風の強さは、私の郷里、上州のカラっ風よりも強烈。体がフワッと浮きます。上州ではそこまではなかったですね。

この間大連市に行ってきました。私の居住する所は、はケ小平の音頭で進められた改革開放策の一環として、1980年代半ばに経済技術開発区に指定された新開地です。「アカシアの大連」として清岡卓行さんの描いた旧市街の東に位置し、タクシーで30分の距離。

地理には不案内で、大連駅から歩いていると道に迷っているうちに偶然たどり着いたのが、別添のロシア風情街。歴史を遡って日清戦争後のロシア、ドイツ、フランスの三国干渉後、遼東半島に進出したロシアは大連の街をロシア風に建設、半ばで日露戦争敗北し、日本に委譲。

写真の建物は帝政ロシア時代の当地の往時を偲ぶもの。現物をご覧になった方もいるのではないかと思います

    建物の造形は嫌いではありませんが、時を経て時間に置いていかれた、今は観光客がときどき訪れる廃墟、哀愁のただよう廃れた、ロシア帝政時代の建物ですね。

 時の流れは無常です。

大連は旧市で人口180万の大都市。日本企業の進出がもっとも盛んで、経済的にも繁栄著しく、高層ビルが林立しています。いまも大きな建物がいくつも建設中。日一日と街はその相貌を変えているようです。明治初年に至るまでは寒村であったという近代大連の歴史はわずか百年ばかり。でも、その歴史の概要を捉えないと、目に映るのは新興都市 大連の顔のみ。新旧両面を持つ大連の顔が見えてこないように思います。

またご連絡します。
  冬の大連から 
      大嶋 登
(協会理事・事務局次長)

   大 連 に 初 雪    2008年11月18日
  きのうから仕事が始まりました。ついさっき、1時間ほどの会議が終わったところです。見習いなので話されていることがチンプンカンプン。早く皆さんにキャッチアップしたいと考えています。

 大連では
今日、今年の初雪が午前中降りました。かなり寒いところです。 幸い宿舎は、広く立派なホテルで部屋はゆったり〜私の基準だと〜とし
ていて、とても暖かです。

 食べ物の豊富、
いろんなアルコールもあります。運動不足なので、しばらくしたら真剣にメタボ対策を練る必要があります。
 大連から 
 大嶋 登
(協会理事・事務局次長)
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